回復、という言葉を、僕はずっと医療の側のものだと思っていた。
ワキガの手術、ボトックス、皮膚科の通院。 切る、注す、塗る。 その「処置」を終えたら、回復は完了する、と。
そう信じて、僕は二十代のほとんどを過ごした。
ところが、処置は、終わった。 傷も落ち着いた。 鏡の前で半袖を着られるようにもなった。
それでも、夜になると、まだ、何かが残っていた。
「何が」とは、長いあいだ言葉にできなかった。 ただ、布団に入る前の三十分が、いつも妙に重かった。
その重さに、名前をつけることを、ある時期からやめた。
代わりに、夜の動作を一つずつ整えていった。
湯から上がる。 バスタオルを使い終えたら、すぐに洗濯機に入れる。 一杯の水を飲む。 部屋着に着替える。 電気を一段落とす。
ひとつひとつは、子どもでもできる動作だった。 ただ、それらを毎晩、決まった順に通すだけで、 一日のあいだ僕の中で散らかっていたものが、少しずつ揃っていくのが分かった。
部屋着、という言葉では、たぶん少し足りない。
寝間着、でもない。 ジャージ、でもない。
湯上がりから眠りまでの、わずか一時間ほどのために選んだ一着。 その一時間を、自分が大事にしている、と身体に伝えるための布。
最近は、リカバリーウェアと呼ばれているものを、 そのために置いている。
機能性を信じているのではない。 (そういう布が本当に何かを「回復」させるのかは、正直に言えば分からない)
ただ、それに袖を通すまでが、僕にとっての夜の儀礼になった。
それを着ると、もう外には出ない。 SNS も置く。 仕事のことを考えない。
そういう、自分との小さな約束ごとを、布が引き受けてくれている。
二十代の頃の僕は、ケアを「足し算」だと思っていた。
化粧水を増やす、サプリを増やす、運動を増やす。 何かを増やすことで、自分が良くなっていく、と。
三十代の入り口で気づいたのは、 回復は、引き算と、所作の更新のほうにあった、ということだ。
夜のスマホを引く。 夜の予定を引く。 夜の通知を引く。
そうやって空いた静けさの中に、 湯上がりの一杯の水と、一着の部屋着を置く。
それだけで、翌朝の鏡の前の自分が、少し違う。
回復は、たぶん、いつまでも完了しない。
処置で身体の問題が落ち着いても、 自意識の癖は、長く残る。
ただ、毎晩、同じ動作を繰り返すことで、 「整える」という現在進行形の動詞のなかに、自分を置き続けることはできる。
夜の所作とは、たぶんそのための装置だ。
何かを治すためではなく、 今日の自分の輪郭を、もう一度、自分のために引き直すための。
書きながら、僕は、自分が回復した、とは、まだ言いたくない。
ただ、夜になると、湯から上がって、部屋着に袖を通す。 その十分のあいだに、僕は、僕に戻る。
それで、いまは、十分だと思っている。