中学の図書室で、進路の話を聞かせてくれたのはいつも、卒業して数年経った先輩のうちの誰かだった。
教師ではなかった。
彼らは、「こういう道もある」とか「自分はこうやって勉強した」とか、慎ましく話した。教室の前に立つ大人とは、声の高さが違った。
僕の中にいまも残っているのは、話の中身というよりも、その距離感のほうだ。
このメディアで、僕は誰にも何かを教える気はない。
教えるという行為は、答えを持っている人が、答えを持っていない人に渡す動作だ。僕が持っているのは、答えではない。通過した時間と、その間に気づいたことの覚え書きだ。
商業の言葉は、しばしば「こうすれば変わります」と言う。医療の言葉は、「これが正しい治療です」と言う。どちらも、必要なときがある。ただ、どちらも、僕がこの場所で話したい角度ではない。
「先輩」と「啓発家」は、似ているようで違う。
啓発家は、聞き手の心を動かそうとする。導く言葉を選び、結論を持って帰らせる。 先輩は、自分が通った道の話をして、聞き手にどう受け取るかは委ねる。「こうしろ」とは言わない。「こうだった」と話して、続きを相手に渡す。
僕がなりたいのは、後者のほうだ。
半歩というのは、追い越しすぎない距離だ。
振り返れば、まだその人の表情が見える。けれど、すぐには手が届かない。 近すぎると、こちらの不安が相手に移る。遠すぎると、声が届かない。
ちょうど半歩、というのは、声は届きながら、判断を委ねるのに十分な空間がある距離だ。
そのくらいの距離で、書いている。
ただ、半歩先からも見えないことは多い。
他の人の身体、他の人の感じ方、他の人がそれを選んだ理由。僕が経験したのは僕の経験で、それは他の誰の経験でもない。
完了形で語らない、というのは、そのことへの敬意のことだ。「乗り越えた」とは書かない。「いまは別の場所にいる」とだけ書く。
読み終えたとき、これは自分の話ではないけれど、近いところに誰かいた、と思ってもらえれば、それで十分です。
Recover Your Presence — プレゼンスを取り戻すのは、あなたで、僕ではない。
僕は、振り返ったときに、まだそこにいる人として、書き続けます。