身体の問題が落ち着いて、もう何年も経つ。

処置の傷は消えたし、肌の凹凸も薄くなった。 夏に薄手のシャツを着ても、汗の輪郭は、ほぼ気にならない。 誰かに「整っているね」と言われると、戸惑いながらも、否定はしない。

それでも、ふとした瞬間に、整える前の自分が、心の隅に立っている。


整える前の自分は、20 代前半の僕だ。

予備のシャツを毎日鞄に入れて、駅のトイレで一度リセットしていた、あの僕。 頬の凹凸を隠すために、髪を斜めに流していた、あの僕。 夏の集合写真で、必ず後列の端を選んでいた、あの僕。

その僕は、いまも、僕の中に、いる。

「もう違う」と思いたい瞬間もある。 「あの僕とは決別した」と書きたい瞬間もある。 ただ、書こうとすると、嘘になる。


ある夜、湯から上がって部屋着に着替えていたとき、 ふと、20 代前半の僕が、その瞬間の僕を見ていたら、何を思うか、考えた。

たぶん、彼は、いまの僕の生活を、信じない。

夏に黒以外のシャツを着られていることを、信じない。 撮られる側に立てていることを、信じない。 処置を受けたあとの傷の話を、当事者として、ブランドの場所で書けていることを、信じない。

その「信じなさ」が、いまの僕と、整える前の僕との距離だ。


距離は、長い。 ただ、決別、ではない。

整える前の僕がいなければ、いまの僕は存在しない。 彼の不安や恥や黒シャツの選択が、僕の身体を、ここまで連れてきた。 処置を選ぶ判断も、クリニックの予約フォームを送る指の動きも、 全部、彼の蓄積の上にあった。

だから、僕は、彼を切り離さない。


「治った」と言い切れる日は、たぶん、来ない。

身体は落ち着いた。 所作は決まった。 鏡の前で過ごす時間は、ずいぶん短くなった。

それでも、整える前の僕は、ずっと、僕の中で生き続けている。 彼に背を向けず、ただ、横に並んで、いまの時間を過ごす。

それが、たぶん、僕にとっての「整った」状態だ。


回復は、過去の自分を消すことではなかった。 過去の自分との距離を、自分のために、ちょうど良い長さに保つことだった。

近すぎると、いまの自分が、過去に引き戻される。 遠すぎると、いまの自分が、空洞になる。

ちょうど良い距離は、毎日、少しずつ調整している。

その作業を、整える、と呼んでいる。