二次会の集合写真が、グループ LINE で回ってきたのは、深夜の一時を過ぎた頃だった。
その日、僕は友人の結婚式に出ていた。
新郎は、大学時代の友人で、僕にとっては、近しい距離にある相手だった。 披露宴も、二次会も、最後の挨拶まで、ちゃんと立ち会った。 お祝いの気持ちは、間違いなく、本物だった。
ただ、帰りのタクシーの中で受け取った集合写真の中の自分の顔だけ、 僕は、その夜、長い時間、見ていた。
写真を、最初に画面いっぱいに拡大した。 そのあと、自分の顔の部分だけ、何度もスクリーンショットを撮った。
頬の凹凸の角度。 目の下のたるみ。 笑ったときの口角の左右差。 頬骨と顎のラインのバランス。
そのひとつひとつを、確認した。 確認して、撮ったスクリーンショットを、削除した。
これを、その夜、たぶん、十回以上、繰り返した。
写真の中の僕は、笑っていた。 他人から見れば、普通の笑顔だった、と思う。
ただ、自分には、その笑顔のうしろにある「何か」が、はっきり、見えていた。
その「何か」を、言葉にすることは、できなかった。 ただ、自分の顔を、自分自身がいちばん、認めたくない、という感覚だけが、確かに、あった。
集合写真の中で、自分の顔だけが好きになれない、という経験は、 たぶん、僕だけの問題ではない。
新郎新婦は美しく、列席者は誰も気にせず、写真はちゃんと幸せそうに見える。 それなのに、自分の輪郭だけ、なんだか、その場に馴染んでいない気がする。
その違和感は、肌の凹凸の問題というよりも、 自分が自分の顔をどう見ているか、という、もっと深い癖に近かった。
僕は、二十代の半ばから、自分の顔の写真を、見ないように生きてきた。
集合写真は、撮られたら、確認しないことにしていた。 自撮りは、SNS に上げない。 プロフィール写真は、何年も、後ろ姿のままだった。
そうやって、僕は、自分の顔と、距離を取り続けてきた。
結婚式の集合写真は、その「見ないようにしてきた領域」に、外側から、突然、流れ込んでくる。 他人の幸せの場で、自分の顔と、強制的に、向き合わされる。
結婚式の翌朝、僕は、ベッドの中で、もう一度、その写真を開いた。
そして、自分の顔を、もう一度、見た。
二次会の照明、笑った瞬間、フラッシュ、新郎の肩の角度。 そういう条件のすべてが、自分の顔を、いつもより、少し、見せていただけだった。
冷静に見れば、そこには、僕の顔が、ただ、あった。 特別に醜いわけでも、特別に整っているわけでもなく、ただ、僕の顔だった。
この記事で書きたいのは、自分の顔と「和解した」、という話ではない。
書きたいのは、その朝、僕が、写真の中の自分の顔を、はじめて、 「これが、いまの自分の顔だ」と、受け入れる作業を始めた、という事実だけだ。
その作業は、その後の数年、続いた。 美容皮膚科に通った時期もあった。 顔そのものより、自意識との距離を整える、という意識で過ごした時期もあった。
どちらの時期も、回復の一部だった、と思っている。
集合写真の自分が好きになれない、という人に、伝えたいことがある。
それは、写真の中の自分を、急いで好きになる必要はない、ということだ。
写真を消したくなったら、消してもいい。 プロフィール写真を、後ろ姿のままにしておいてもいい。 自撮りを、SNS に上げない時期があってもいい。
ただ、写真を見るたびに、自分を心の中で減点していた数年があった人に、ひとつだけ、覚えておいてもらえたら嬉しい。
写真は、その瞬間の照明と、フラッシュと、角度の組み合わせの記録だ。 それは、あなたの全体ではない。
僕は、結婚式の集合写真を、いまも、保存している。
何度も見るためではない。 あの夜の自分が、自分の顔を見ながら、何かを通過し始めた、その記録として、置いてある。
その日からの数年で、僕の顔は、たぶん、ほとんど変わっていない。 ただ、その顔を見るときの僕自身の温度が、少しずつ、下がっていった。
今日、誰かの結婚式に行って、集合写真の中の自分が好きになれなくても、それは、間違いではない。
ただ、五年後の冬に、自分のプロフィール写真を、前向きの写真に変えられている自分を、 今日、想像してみてもいい。
その想像のあいだに、回復は、もう、始まっている。